水域(2)

誰にも言っていなかったけれど、実は少し前から休職をしている。
直接の原因は、不眠からくる抑鬱傾向で、診断名は鬱病
眠れていないのも確実に精神を削っていたけれど、キャリアに不安があり焦って、余暇の時間を資格の勉強などに費やしたのが精神をすり潰したんだと思う。

抑鬱にも波があり、「最近は調子がいいかも」と思える時と「あ、もうだめだ」と思う時がある。
勉強には何より継続が大事だ。ダメな時に寝込んでしまい、調子がいい時にその分を取り返そうと限界まで動く。その時点でもう破綻している。
だんだんと状態が悪くなっていき、「念のため」と思って受けた産業医面談で突然休職を言い渡されて今に至る。

休職をしたことは自分にとってかけがえがなく、貴重な時間になった。
自分のこれまでの生き方や、考え方の歪み、無理をしていたことにようやく気付けたから。

休職当初は、休職するほど自分の状態が酷いとも思わなかったし、その分資格の勉強を進めようなどと思っていた。
けれど、仕事から解放されてプツリと何か糸が切れたのか、身体が動かなくなり、1ヶ月以上寝たきりの生活が続いた。
誰かが昔「鬱の時の眠りはしっとりしている」と言っていた。
心が疲れて憂鬱に足を取られていると、泥に身体を沈めるような、深く重い眠りが回復し切るまでずっと続く。
それは降り止まないやさしい雨にも似ていて、たしかに「しっとりしている」という表現は合っているなと思う。

自分がうつ状態になったのは、本質的には不眠や仕事も関係ない。
これまでの生き方の清算を迫られたんだと思う。

気づいた事として、私はとても他者依存的な人格をしている。
自分は、家庭の中では、常に両親の顔色を伺うことを要されてきた。
一方で、愛されたいとか、褒められたいとか、そういった子供じみた欲求はあまり満たしてもらえなかった。
そうした辛い状況でストレスコーピングするために、自分の辛い感情を離人させる事で生き延びてきた。
自分の気持ちをずっと蔑ろにしてきたし、自分が何を欲しがっているのかも分かってなかったのだと思う。

勿論家庭が全てでないし、それは1番分かりやすい説明付けの装置であるだけだ。
私があまり器用でないからうまく立ち回れなかったとか、普通の人より問題を抱えているから褒めづらかったとか、あるかもしれない。
でもここで大事なのは、結局養ってきた自分がそういう形になっているということ。

私はTwitterに料理の写真をアップロードすることがあるけれど、勘付いている人は勘づいていると思うが、あれは親の分を作っているだけで自分は食べていないことも多い。自分が食べたくて作っているわけじゃないからだ。
食べたいと思わないで作った料理は砂を噛むような味がするし、自分で作った料理にはとっくに飽きている。

そういった、“砂を噛む”ような味気なさ、自分自身に何ももたらしてあげられない、豊かにしてあげられない在り方に限界がきたんだなと思った。
ほんとうの食べものを食べなければ、心は貧しくなっていくばかりだと誰かが言っていた。
食べものは、言葉だったり、体験だったり、音楽だったり、物語だったりする。
私は自分が何を欲しているのかをまず知らなければならない。

こうして一度躓いて止まってみて、これまでの行動原理は「殴られたくない」「褒められたい」だったことに気付く。
私は集団の中で安心できる居場所を作るために、過剰に気を遣ってしまう癖がある。
好きな人に認められるためならば、自分がしたくないこと、興味がないことも身を削ってやる。
有り体に言えば媚びすぎているし、自分がないとも言える。
そうやって自分を削ってきて、苦しくなって動けなくなった。

自分で自分の価値を認めてあげられないから、自分で自分の欲望を大事にしてあげられないから、そういった事が起きる。
誰かの期待に応えなきゃ、ただ前に進まなきゃ、というプレッシャーは結局、私を酷く蝕んでしまった。
だから不眠にもなったし、心が枯渇して鬱にもなった。
今は「もういいんじゃないか、もう終わりにしよう」と、これまでの私に対して思っている。
私は完璧でなく、誰かの望む私にはなれない。私は“あなた“にはなれない。
私は心だけ先走って、現実とはかけ離れてしまっていた。

何処かでまだ焦る気持ちはある。
けれど、大事なのは自分の足で真っ直ぐに立てることだったのだと思う。
自分がどこから来て、どこへ向かうかのかを明確に理解すれば、きっと、「私の中にある意志」が、自ずとついてくるのだ。

私がほんとうに必要だったのは、心から私が私を愛することであり、その願いや望みを私自身が守ってあげることだった。

残念ながら、私は自分に「よくやった」と言ってあげることができない。
何も成し遂げることが出来なかったから。それでも、よくもまあ変に頑張ったものだとおもう。

ほどなくしてこの鬱は終わりを迎えるだろう。
大事なのは、その後、どんな歩き方ができるかだと思っている。
これまで打ち捨てられた自分の絶望が消えたわけじゃない。
それでも、きっとその上に、今度はしっかりと味の感じられる豊かさを積み重ねていけると思う。